刺史(しし)とは
刺史は、
中国の
前漢時代から
五代十国時代にかけて存在した官職です。当初は地方の監察官として設置されましたが、時代とともに
州の長官としての役割を担うようになりました。
州牧(しゅうぼく)とも呼ばれ、日本では国守の
唐名として用いられることもありました。
歴史
刺史の制度は、
前漢の武帝時代の紀元前106年に遡ります。当時の
前漢は、度重なる外征や塩鉄
専売制の実施により、民衆の不満が高まっていました。武帝は、この社会不安に対処するために、厳しい態度で臨む官僚、いわゆる「酷吏」を登用しました。その一環として、地方
行政区画である
郡を監督するために刺史が置かれました。
当時、
郡の長官である
郡太守は、地元の有力者(
豪族)と結託していることが多く、その行動を監視する目的で刺史が設置されたのです。全国を13
州に分け、各
州に刺史を配置して
郡太守を監察しました。ただし、首都周辺の地域には刺史は置かれず、後に
司隷校尉(しれいこうい)という役職が同様の役割を担いました。刺史の俸禄は、監察対象である
郡太守の2000石に対して600石と低く設定されていました。
紀元前8年には、刺史は
州牧(または単に牧)と改称され、俸禄も
郡太守と同格の2000石に引き上げられました。この時、
州内の各
郡県の行政に介入できる権限も与えられ、監察官から行政官へと役割が変化しました。しかし、官名は
紀元前5年に刺史に戻され、
紀元前1年には再び
州牧となるなど、その名称は頻繁に変更されました。
後漢の光武帝は
42年、
州牧を再び刺史に戻し、俸禄も以前の600石に戻しました。
前漢時代には特定の治所を持たず各地を巡察していましたが、
後漢では
州内に治所を設置し、毎年8月に各
郡を巡察する制度に改められました。さらに、治所周辺の行政権を完全に掌握するようになりました。
188年には、各地で反乱が頻発したため、刺史は
州牧に改められ、同時に兵権が付与されました。ただし、
州によっては刺史のままの場合もあり、刺史が
州牧に変わったというより、新たな
州牧の職が設けられたと解釈する方が適切でしょう。
魏晋南北朝時代
魏晋時代には、刺史は将軍位を与えられ、兵権を行使することが一般的になりました(将軍号のない刺史は単車刺史と呼ばれました)。その後、将軍号は名目化し、代わりに都督(ととく)の役割が重要になりました。南北朝時代になると、南朝は概ね魏晋の制度を踏襲しましたが、北朝では都を管轄する
州の刺史を
州牧とし、その他の
州を上
州・中
州・下
州と格付けして刺史の官品を区別しました。この頃には
州の分割が進み、刺史の地位は相対的に低下していきました。
隋の文帝は
583年、
州・
郡・県の三段階の地方制度を
州・県の二段階に変更し、
行政区画を整理しました。この際に刺史の兵権を都督府に移し、刺史はかつての
郡守と変わらない立場になりました。その後、
州は
郡となり、地方官としての刺史は一時的に消滅しました。しかし、地方監察の部署として司隷台が設けられ、14人の刺史が各地を巡回・監察する制度が導入されました。
唐が成立すると、
618年に再び
州制が復活しました。
五代十国時代には、刺史が兵権を握って独立する事例も見られましたが、
北宋時代になると、
州の長官は知
州となり、刺史は名称のみが残る寄禄官として実質的に消滅しました。
まとめ
刺史は、その歴史の中で、監察官から行政官、そして武官へと役割を変えながら、
中国の地方行政において重要な役割を果たしました。その名称や権限は時代とともに変化しましたが、地方を統治する官僚の代表的な例として、歴史に名を残しています。
刺史の変遷を理解することは、古代
中国の地方制度と官僚制度を理解する上で不可欠であると言えるでしょう。