アナトリー・サプチャーク

アナトリー・アレクサンドロヴィッチ・サプチャーク



アナトリー・アレクサンドロヴィッチ・サプチャーク(1937年8月10日 - 2000年2月20日)は、ソビエト連邦末期からロシア連邦初期にかけて活動した傑出した急進改革派の政治家法学者です。サンクトペテルブルク市長を務めたほか、後のロシア連邦大統領となるウラジーミル・プーチン氏とドミートリー・メドヴェージェフ氏を指導し、彼らが政界へ進出する重要なきっかけを作った人物として知られています。

幼少期から法学者へ



1937年8月10日、東シベリアチタで鉄道技師の子として生まれました。1959年にレニングラード大学法学部を卒業後、スタヴロポリ地方弁護士としてのキャリアを開始し、法律相談事務所の所長も務めました。その後、ソ連内務省の民警特別学校や紙パルプ工業技術学校での教職を経て、母校であるレニングラード大学法学部に籍を移します。講師、助教授として経験を積み、最終的には経営法講座の主任教授に就任しました。このレニングラード大学教授時代に、後の大統領となるウラジーミル・プーチン氏を教えています。法学分野における活動として、12冊の専門書籍と多数の論文を執筆・発表しています。1988年にはソ連共産党に入党しました。

改革派政治家としての台頭



1989年3月、ソ連人民代議員選挙に立候補し、経済および司法制度の改革を訴えて当選を果たしました。同時に最高会議代議員にも選出され、急進改革派の同志たちと共に地域間代議員グループの一員として活動しました。このグループには、アンドレイ・サハロフ氏やガリーナ・スタロヴォイトワ氏といった著名な改革派が含まれており、彼らと共にソ連の再編案である「ヨーロッパ=アジア・ソビエト共和国連邦」構想を提唱しました。同年4月、グルジア・トビリシで発生した市民デモに対する弾圧事件の調査委員長に任命され、政府当局の責任を厳しく追及する姿勢を示しました。1990年にはレニングラード市ソビエト議長に選出され、ボリス・エリツィン氏やガブリール・ポポフ氏らと共にソ連共産党を離党しました。そして1991年6月、レニングラード市長に当選し、ロシア民主改革運動の設立にも参加して共同議長を務めました。

サンクトペテルブルクの再興



1991年8月に発生した保守派によるクーデター未遂事件では、レニングラードにてヤナーエフ副大統領らが組織した国家非常事態委員会を強く非難し、ミハイル・ゴルバチョフ書記長の復帰を求めました。同時に、市内の軍幹部と接触し、クーデター側につかないよう粘り強く説得に成功しました。クーデター失敗後、サプチャーク氏の主導により、都市の名称がかつての帝政時代の名である「サンクトペテルブルク」に復活されました。同年11月7日には、伝統的な十月革命記念日の軍事パレードを廃止し、代わりに「万歳、サンクトペテルブルク」と題した市民集会を開催しました。この集会には、国外に亡命していたロマノフ家家長のウラジーミル・キリロヴィチ大公を招聘し、新生サンクトペテルブルクが再びヨーロッパに向かって開かれた窓であることを内外に宣言しました。

プーチンとの関係と晩年



1994年6月、レニングラード大学時代の教え子であったウラジーミル・プーチン氏をサンクトペテルブルク市第一副市長に任命しました。プーチン氏は市政においてその卓越した実務能力を発揮し、これが後に彼の中央政界進出の足がかりとなりました。しかし、1996年6月のサンクトペテルブルク市長選挙の決選投票で、自身の部下であったウラジーミル・ヤコブレフ第一副市長に僅差で敗れ、市長の座を失いました。その後、国有財産横領の嫌疑をかけられ、一時期フランスへの亡命を余儀なくされました。しかし、かつての部下であるプーチン氏が1999年ロシア連邦首相に就任すると、ロシアへ帰国しました。

2000年2月16日に公務をこなした後、僅か数日後の2月20日、プーチン氏の大統領選挙支援活動のために滞在していたカリーニングラード州スヴェトロゴルスクにて急死しました。公式には心臓発作が死因と発表されましたが、ジャーナリストのアンドレイ・カラウロフ氏など、一部からはこの公式発表に疑問が呈されました。医療専門家の中には、公式見解と矛盾する意見を持つ者もおり、サプチャーク氏の死に関する犯罪捜査が一度だけ開始されたのは、死後2ヶ月以上経過した2000年5月6日のことでした。また、ヴァレリヤ・ノヴォドヴォルスカヤ氏率いる民主同盟は、サプチャーク氏だけでなく、彼と行動を共にしていた2名の協力者も、毒物投与を示唆する心臓発作で同時に死亡したとする公式声明を発表しました。これらの協力者の名前は公にされていません。

人物評価



サプチャーク氏は、有力な急進改革派の旗手として、その豊富な法律知識、メディア映えする容姿、そして何よりも強力な弁舌を武器に、短期間でロシア政治の中心人物となりました。しかし、その雄弁さは時に相手への批判が厳しすぎるという側面も持ち、ソフトなイメージや温和さに欠けるとの評もありました。また、理論を重視するインテリゲンツィヤにありがちな傾向として、現実的な行政手腕においてはやや劣るとの見方もありました。さらに、市長権限を濫用したとの批判もあり、これが市民の支持を失う一因となったとも指摘されています。

関連事項



* クセーニア・サプチャーク - アナトリー・サプチャーク氏の次女。ジャーナリスト、テレビ司会者、政治家として活動し、2018年のロシア大統領選挙に出馬しました。

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